「成蹊は、この町に愛されているだろうか?」という広告。
とりあえず、なんでブログを今更始めたかというと、単純に文章がうまくなりたかったからです。自己満足でも良いから、人に見られることを意識してみようかなーって。
自分がやりたい事に後悔しないよう少しやってみたいと思います。
まずずーっと思ってたこと。
自分の大学にこんな広告が出来ました。
「成蹊は、この町に愛されているだろうか?」
こういったコピーでした。写真はこちら。
なんかすごい違和感、というか不思議な感じがしてたので色々考えてみました。
この前の講座でコピー、広告というのは人々に「新しい価値観」を提案しているものが良いものだといっていました。
では、もしそうならばこのコピーはどうでしょうか?
まず自分が思ったのは「ああ、成蹊って吉祥寺から嫌われてるんだ。」
と思いました。確かに歩きタバコ、横並びに歩く、飲み会の後のひどい有様、そりゃあ誰かしら苦情くるわっておもいます(笑)
自分もあんまり人の事言えませんが、たまに見かける吉祥寺の成蹊生の様子は間違っても褒められることではないとおもいます。
「成蹊生は吉祥寺から好かれていない。」という新しい価値観を大学側は提案して、
「だから愛されるようにちゃんとしなさい、学生たち」と伝えたかったのでしょう。
だけど実際この広告を打ち出してどうなのでしょうか---。
僕が見ている限りでは何も変わっていないように見えます。
学生にとってこの広告は全く意味のない関係ないものになっています。
それはなぜでしょうか?自分なりに考えてみました。
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それを考える前にまず、広告だけで人は動くのか?を調べてみました。
丸井が1970年代にお歳暮かなにかの広告で中畑貴志は
「好きだから、あげる。。」
というコピーを打ち出したそうです。
その当時お歳暮と言えば誰に対しても石鹸やバスタオルなど決まったものだったそうです。それを、相手の事を考えて相手が欲しいものをイメージして送る物を決めるというギフトの考え方の変化を提案したそうです。その考えるだけの色々なものが丸井にはそろってるよ、と。その結果丸井の売り上げが大幅UPしたそうです。
「自分ごとだと人は動く」
「理由がわかれば人は動く」
と言われてますが、この広告はその理由づけが出来たんだとおもいます。
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学生はこの広告をみたとして、なぜ変わらないのでしょう?
僕が思うには、「学生は大学側が思っているより”成蹊”という意識が低い。」のだと思います。特にマイナスのイメージの事になればなる程自分ごとではなくなるように思えます。
例えば、
成蹊大学の図書館のきれいさがまとめサイトにのった。
今度からのドラマの撮影地になった。
など、大学にとって嬉しいことは自分ごとのように反射的に喜べます。
逆に例えば、
成蹊大学の人が犯罪で捕まった。
など大学にとってマイナスな事はあまり自分ごとには感じません。
あの広告は成蹊生に向けて発信したけど、あまり自分ごとに感じさせることが出来なかったのかもしれません。
ではどうしたら動かせることが出来たのでしょうか?
僕には正直分からないです(笑)
トイレみたいに「いつもきれいにご利用ありがとうございます」みたいな感じで嫌味っぽくじゃないですけど言えばよかったのか、成蹊大学の学生とういよりは一人の人間として訴えたら動いたのか。。。
マナーを良くさせる為に言葉を一々考えるのも大変ですが、あのコピーは僕からしたら言い方が悪いですけどただの愚痴を吐き出してるようにしかみえなかったです。
わざわざ大学側から自分のとこは低レベルな学生しかいないって打ち出すなんてTwitterで悪さ自慢する人とあまり変わらないように思えました。
広告をうちだしたことにより、逆にマイナスイメージになる。
広告って怖いものだなと思いました。
打ち出したものとその効果のなさのギャップに自分は違和感があったのかもしれません。
結論なんてあまり考えてないし、だからなんなんだ!って話でしたけど一回考えてみることによって過去の自分の酷い行動を反省することが出来たので良いきっかけだったのかもしれません笑
まずは僕から吉祥寺に愛されるように頑張ります(笑)
ああ、成蹊が荻窪にあればよかったのに・・・・・